ゴドーを待ちながら

不条理

芝居って苦手。今もわざわざ見に行くか、といえば、よほど好きな劇作家や俳優でないかぎり、足を運ぶことはない。でも、サミュエル・ベケットは別格。

なんで別格なのか、といえば、芝居嫌いであることを自覚していた多感な学生時代、だけどわたしは文学部に在籍、英文学概論だったか、何かの講義で読んだ『イギリス文学史入門』(川崎寿彦著/研究社出版)の「不条理文学」についての記述(以下引用)を読んで、とにかく面白そう! と勘が働き、実際に本を読んでみたり、芝居を見に行ってみてベケット作品を存分に楽しめたから。

条理が立たないからフットボール・ファンは騒ぐ。しかし条理の立たない事実に読者や観客をじっくりつき合わせるのが、不条理(absurd)の文学、そして演劇である。サルトルカミュ実存主義の文学、イオネスコの不条理劇など、ヨーロッパ大陸の文芸思潮のある部分は、イギリスとも無縁ではありえなかった。ベケット(Samuel Beckett, 1906-)もアイルランド出身。同郷の先輩作家ジョイスと似て、ダブリンを出た後はロンドンを素通りしてパリに行ってしまった。(中略)そして作品の言葉は、意味(センス)でなく無(ノン)・意味(センス)を表す目的で使用されている。文学とは言語による表現伝達のいとなみであり、とりわけ西欧のルネッサンス以降の文学は言葉に対するゆるがぬ確信の上に成立していた。これを思えば、文学の歴史も遠い道のりを歩いたものであるーただしわれわれが立っているのが終着点かどうかは、まだ不明であるけれども。(p.157-158)

しかし、そういう行為にまで至るキッカケを与えてくれたのは上記不条理文学、およびベケットについての川崎先生の記述が愉快だったからわけで。どこがツボかといえば、ノンセンスは、まぁ、いいとして、「ロンドンを素通りしてパリに行ってしまった」「遠い道のりを歩いたものである」といった、ゆるりととぼけた文体だった、という点がツボだった。hit and awayですよ。ツボをグイグイとつついて、フランスへ、アウェイですよ。

もし、こういう文体じゃなかったら、不条理文学やらベケットやらにこうまで入れ込むことはなかったかも。同じ対象を紹介/解説するにしても、文体ひとつで気に入らなかったり、見逃してしまうもの。全員がそうではないだろうけど、わたしはそう。

出合いや、選択の場面なんて、しょっちゅうなんだけど、自発的アクションにまでおとしこめるキッカケというものは、日々ぼんやり、のほほんとして過ごしがちな日常では希有なもの。自分史のなかできらきらと輝き続けるもの。というわけで、何年も昔のことなのに、今でもきちんと覚えていたりするエポックメイキングな出合い。

ゴドー

で、前置きが長くなったのでゴドーのことを。

二幕ものの悲喜劇。一幕目、エストラゴン(通称ゴゴ)とヴラジミール(通称ディディ)は顔も知らない、なにをしているのか、いつ、どこで落ち合うのか、なにを約束したかも定かでないゴドーを待っている。されどゴドー現れず。

二幕目、ゴゴとディディは相変わらず待っている。だけどやっぱりゴドーは現れない。そんな筋書き。悲しくもあり笑えもするまさに悲喜劇! 例える必要はないのかも、だけど、バスター・キートンのドタバタ映画のよう。

白黒はっきりつけがたい踏ん切りがつかない待つしかないような状況下での、待つという行為の選択を、わたしは意思と捉えて、なぐさみに、その間、笑いを見いだせれば、と思う。

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

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イギリス文学史入門 (英語・英米文学入門シリーズ)

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